certain victory

certain victory

バスケットを始めてすぐ。

たまたま見ていたTVの
画面越しに突如現れた、

全員が坊主頭のチームと
そのゲームを支配する、
見た目がそっくりな
双子の兄弟のコンビプレーに、

山口県の丸坊主の双子の兄弟は、
あっという間に釘付けにされてしまった……

まだ9歳で漢字に弱く、
ユニフォームの胸の文字を
「くまだい工高」
と2人揃って読み間違えていたあの頃。

『必勝不敗』『能代工業』『小納兄弟』

この全てをはっきり認識したのが
いつだったのかは覚えていないし、
厳密な線というものも存在しない。

…ただ、潜在的な
レベルで言ってしまえば、この

”秋田県立能代工業高校”

を意識しなかった日は
それから1日もないくらい、
ぼくらのバスケットボール人生に、
とてつもない影響を与え続けてくれた。

…中1の冬。

能代工史上最高のPGの1人、
半田さんが高校3年時の
ウィンターカップでの衝撃ときたら。

決勝戦で、能代工が、
宮城の仙台高校を倒し、
優勝したあの年に、もし…

【バスケ界の流行語大賞】

というものが
あったとしたら、
間違いなく、能代工業監督の
加藤三彦先生による

「半田こけたらチームこける」

だったと思う。

それくらい
影響力のある選手であり、監督であり、チームだった。

この試合のビデオは
直之と本当に擦り切れるまで見た。

…のちに、

その中の1シーンが、
漫画『SLAM DUNK』で再現され、
能代工業がバスケ界をも超越した存在に
なるとは知らずに。

【スラムダンク】山王工業プレスの元ネタ(1:14):

白地の胸元にシンプルな
「能代工高」の4文字のみ。

たったそれだけの
デザインのユニフォームが、
どれほどカッコ良く見えたことか。

試合前のW-UPで行う
連続タップの速さと華麗さは、
プロ選手になるほど沢山練習してきたのだけれど、
現役26年間の最後まで結局真似できなかった。

【速攻】【ゾーンプレス】

と書いて、どちらも

【能代工業】

と読むんじゃないかくらい、

むちゃくちゃ走るし、
むちゃくちゃパス回しが速いし、
むちゃくちゃ泥臭いし、

そして、とにかく
むっちゃくちゃ強い!!!

【必勝不敗】

こんな横断幕を
高らかに掲げられる
強さと”覚悟”を持った高校生チームが
歴史上、一体どれだけ存在しただろう。

決してぼくだけが
ミーハーだったわけじゃなく、

あの時代に、
バスケで高みを目指した
高校生だけがそうだったわけでもなく、

日本中の子供から大人まで
バスケを愛するファンみんなが
憧れ、魅力され、目指し、神格化した
そのチームこそが能代工業高校だった。

…そして、

このチームは、
大仰でも何でもなく
ぼくの人生の一部だった。

……高1の夏。

人生で初めて
元日本代表選手を生で見たのが
あの小野秀ニさん。

山口県の国体チームを
指導に来てくださり、
脚力の弱い自分だけ
DEFのディナイの練習でハメられまくった。

……それから18年後。

キャリア最後のチーム(東京Z)でも、
HCとしての小野さんと再会し、
膝がボロボロだった自分だけ、
34歳でまたも同じ練習でハメられることになるとは
当時は想像すらしなかった…。


(シーズン後の打ち上げでの小野さんとの1枚)

その年の高知国体。

人生の最初で最後となった
能代工業(秋田)との対戦では、

”TVと月バスの中の人”
でしかなかった、
「田臥」「菊池」「若月」
の能代工を相手に30-83で完敗した。

試合直後でも
正直まだ夢見心地で、現実のこととして
捉えることが出来なかった。

ようやく大敗を冷静に振り返れた頃、
加藤三彦先生が83点しか取れなかったことに
怒りまくっていたという話を聞いて、

「このまま俺らは、
バスケをやってて大丈夫なのか?」

と考えさせられるまで。

そんなある日…

ぼくらの前に突然現れたのが、
山口県のレジェンドプレイヤーで、
能代工OBの目(さっか)さん。
(いすゞ-ゼクセル、現・埼玉栄高女子HC)

豊浦高校の再建のために用意された
地獄のメニュー(通称:恐怖の目練)と共に。

スキンヘッドに髭で
見た目は完全にそっち側。
おまけに身長190cmの熊のようなガタイの人に、

死ぬほどキツい練習をさせられたり、
一緒に5on5までしていただいたり、
ビビって声も出ない直之が思いっきり腹を殴られたり、
情熱を持って厳しく指導していただいた。

おかげで、
10年以上も
全国出場を逃していた豊浦が、
それから全国常連校になるほど
急激に強くなることが出来た。

…高校の3年間。

ジュニア代表合宿に
毎年招待していただき、
あの加藤三彦先生にも
直接指導していただけた。

この3年間の選考合宿で
1度も箸にも棒にもかからなかった経験が、
後のキャリアでの大きな飛躍の原動力となった。

……専修大学に入学し、

ついに能代工業の選手と
チームメイトになれた。

4年生に高校8冠の小嶋信哉さん。
3年生に高校全9冠の菊地勇樹さん。

同期には、
自分たちの代の
インターハイを制した、
長澤晃一と小野弘樹。

と、同時に、

子供時代に毎日釘付けだった
小納(真良)さんと半田さんの
後輩にもなれてしまった。

学内や体育館、体育寮での生活を共にし、
色んなところで一緒にお酒も飲みまくっているうちに、

「能代工業の選手も
自分たちと同じ人間なんだ」

ということを知れ、
何だかそんなことがめちゃくちゃ嬉しかった。

専修大に入学して間もなく…
ついにあの能代工業バスケ部の創始者である、
加藤廣志大先生(大将)にお会いできた。

専修大学バスケ部に
講演にお越しくださり、
能代工の歴史のルーツを語ってくださったのだが、

その話以上に、
当時ぼくでは会話すらできないほど
恐ろしかった4年生のあの小嶋信哉さんが、
恐怖で震えながら大将の話を聞いている姿が
とても印象的だった。

…大学4年のインカレ直後。

アメリカの
ロングビーチで
日本人初のNBAプレイヤーの
田臥さんとチームメイトになった。

まだ学生ノリのぼくに、
「プロとは何か」
というものを様々な形で示していただいた。

……その後の
プロキャリア13年間。

数え切れない程の
能代工業OBの選手たちと、

チームメイトや対戦相手として
一緒にバスケットをし、
色々なコミュニケーションも
取らせていただいた。

未だに伝説として語り継がれる
95年の福岡ユニバ決勝のアメリカ戦で、

のちのNBAスーパスター達を相手に
一歩も引かず、日本中に夢や希望を与えた
あの長谷川誠さんからは、

bj時代に初対戦した試合中に
飛び膝蹴りをお見舞いされたり、
なぜかぼくが焼肉を10万円分奢らせてもらったり、

幾つもの面白過ぎる思い出話を作っていただいた。

最近でも、
山王工業の川田弟のモデルとなった
元日本代表の関口さんから、朝のclubhouseで、
206cmとは思えないほど軽快で
ユーモア溢れるトークを楽しませていただいている。

……こんな風に、

加藤廣志先生から始まった
能代工業の歴代のバスケ部員の皆さまの
血のにじむような努力の結晶が、
ぼくのバスケットボール人生をこれだけ豊かにしてくれた。

名門の看板を背負い、
凄まじい練習量をこなし、
全国大会で他を圧倒する。

そのプレーに魅せられ、
熱狂し、燃え上がった、
日本中のバスケファンと、
能代工を倒そうと毎年挑み続けた
全国のライバルチームとの
競い合い、凌ぎ合いの中で打ち立てられた、

全国大会58回優勝という金字塔

これを一言で示しているのが、あの
『必勝不敗 能代工高』の横断幕。

2018年3月。

棺に入った大将を乗せた車が、
能代工業高校の校庭を1周するその間。

極寒の寒空のもと、
大将がチームを率いた当時の
ユニフォームを着用した現役の部員達が、

悲しみを必死に堪えながら部歌斉唱をした時にも
あの横断幕は掲げられていた。

1960年から現在まで、
長きに渡って大将が築き上げ遺された

”能代工業”という有形、無形の財産

を、完全なる部外者である自分にまで、

「これからの世代に伝えていきたい」

そう強く思わせてくれた、
この魂の1冊に、心から感謝したい。

追伸:
今回、ベースボールマガジン社から出版された
『必勝不敗 能代工バスケットボール部の軌跡1960-2021』
を読ませていただき、
https://www.facebook.com/kazuinla/posts/971651176922064

自分の人生において、
能代工バスケ部がどれほど
大きな存在であったかを改めて認識することができ、
創始者である加藤廣志先生への感謝の想いが溢れてきました。

だからこそ、
改めて、
天国の大将へこのメッセージを贈らせていただきます。

【必勝不敗】

この言葉が
最高に似合うチームを
生み出してくれて、

ありがとう!!!